阪神・淡路大震災①

 地震からもう28年。被災者としては忘れられない1.17である。子どもが生まれたばかりで小学校6年生の担任、ぐらいの状況で当時を想像していただき、今後の皆さんの防災の糧になれば・・

 

 人生はいくつもライフイベントが用意されていて、ちょうどこの頃は子どももできて「3月には6年生を卒業させて学校も異動期だなあ、さてどうしよう?」と思案していた。一応自分も長男で、実家から勤務できるように異動希望を出すべきか・・いやいやこのままこの地でやっていくべきか??あまり気が進まないままに異動のための試験を受けてから1週間。寒くて雪の多い冬だった。

 子どもが午前4時ごろ目を覚まし、寝付けないままぼうっとしていたら突然青白い光が窓の外を走った。一瞬雷かと思ったが色がおかしい。音もしない。?と思っていたら地面を劈く揺れがきた。慌てて子どもに布団を被せて妻とその上を覆い「揺り返しがくる!」と言ったのまで覚えている。凄まじい横揺れがきた。コップの中に入れて巨人に揺さぶられている感覚でそばにいるはずの妻の顔もはっきり見えない程だった。

 

 やがて揺れがおさまり、家族の無事を確認してホッとしたのも束の間。(たぶん)外から人の声とガス臭い匂いが立ち込めた。これは外に逃げないとやばい、と隣のリビングに出ようとして、薄明かりの中でただならぬ気配があることに気づく。一面に割れたガラスの破片があった。ちょうど寝ていた和室前にスリッパを脱いでいたのと何かの薄明かりでぼんやり部屋が見えたのが救いだった。

 

 さて、逃げようとしてなんとか道を作ったが「寒い!」 服を取ろうとタンスのある部屋を開けようとしたら、なんとドアが開かない。隙間から見ると重い和ダンスが倒れていて塞いでいる。万事休すと諦めかけたら、ベランダに洗濯物が!! 取り入れ忘れていた妻に感謝! なんとか乾いていた服を着込んで駐車場にあった車に子どもと妻を避難させた。逃げる途中、崩れたマンションの壁や隣にあったはずの家の屋根だけが見えた。

 

 明るくなってきて隣人の救出作業が始まった。ご近所総動員でご高齢の夫婦を崩れた家から助け出せたのはもう昼前。救急車や消防車はとても来ないだろうなと思える状況だった。とにかく我が家も子ども最優先で脱出することにした。公衆電話の長い列、10円玉リレーや公園・運動場の炊き出しはすべて真実だ。今考えてもあまりに我々は無防備だった。

 

 すでに車の列は国道を塞いでいたが、地震発生の前に炊けていたご飯をすべて握り飯にして車に乗り込み実家を目指した。ひと山越えるのに半日はかかったが、市境を越えて別の市に入ると車を洗っている人がいた。え??この地震は?私たちが住んでいた所だけで起こったの???不思議な光景だった。すでに陽が沈みかけていたがなんとか安全圏に来たようだ。興奮はなかなか治らなかったので後になって振り返ると①ガソリンを入れていてよかった。②スリッパを身近に置いていてよかった。❶次の日の着替えは枕元に置こう!❷懐中電灯も用意しておこう!!たくさんの反省が湧いてきた。  to be continued