阪神・淡路大震災②

 あまりに無防備だった、からこそかもしれないが、人が助け合う姿をたくさん見た。自分が子どもを抱えていたこともあって、私が勤務先に初めて出向けたのは2日後だった。しかし同僚がまず無事を喜んでくれたり、学校の片付けがほぼ終わっていたり、感謝しかなかった。対照的に?妻の学校では「今まで何をやっていたのだ」というお叱りの声もあったと聞いて憤然とした。さすがに学校は大変だったのだろうが、育休中に心配して出てきた教員にかける言葉ではない!と私の学校の校長が代わりに電話口で怒鳴ってくれた。(なるならそんな校長になりたいと思った。)

 

 子どもを預けてしまった強み?で、そこからは学校に寝泊まりした。余震のたびに避難者が増えひどい状態であった。そんな時、別な地域の教員仲間が差し入れを持ってきてくれたり、片付け作業を手伝ってくれたりと感謝の連続だった。そういう中颯爽と現れたのは、当時勤めていた学校の地域の選挙区から衆議院議員をされていた小池百合子東京都知事だ。「一番お困りなことは何ですか?」と聞かれて「トイレです」と答えたら、次の日には仮設トイレがたくさん届きその行動力に「すごい」と思った。でも当時の仲間は一様に言う。「あれは忘れられない。」本当に困っている時の支援は心に刺さるものだ。

 

 自宅被害の方が酷かったがなんとか学校再開となり、初めは全国各地に避難していた子どもたちも少しずつ戻ってきた。卒業式までに全員が揃うか??際どいところだが準備は進めた。卒業文集。我々は話し合って地震のことをあえて書かないことにした。たぶん今書けばそればかりになる。確かに記録にはなるかもしれないが、卒業文集という6年間の思い出をまとめる場とは別な形で残せれば、という思いだった。この時の手記とか記録とか、クラスメイトが怪我をしたり家族が亡くなったりしたストーリーを本にしたりマスコミが取り上げたりしていたが、ちょっと苦々しく見ていた。無事を確認し、またみんなに会えて嬉しいけれどそうでない人や家族もたくさんいる。学校に泊まったことで家を失った人たちとゆっくり話ができたことや、子どもたちが書いた文集の原稿を1枚1枚これまで以上に添削できたのは震災以降の夜のおかげだ。この時間をくれたのは、自分の子どもと預かってくれた両親そして妻だと感謝している。

 

 震災2ヶ月と少しで卒業式。避難者が残っている体育館での卒業式提案に同僚から異論も出たが、とりあえず体育館実施を前提に準備を進めた。2週間前をリミットに近くの公民館で分割開催する案を副案として持ってはいた。震災本当に恐ろしいのは時間が経つほどに人が去り、最後どこにも行き場のない方々が残されることだ。3月上旬、体育館に残っていたのは4名の高齢男女。広い体育館の真ん中に畳を敷いてこたつを囲んでいた。いつも食事を運ぶと「先生お世話になってすまんなあ」と声をかけてくれた。その最後の4名がある夜お汁粉をご馳走してくれた。「まあ食べてよ」「いただきます」他愛のない話をしたと思うが内容は記憶していない。次の日4名の姿はなかった。

 私は言葉に出さなかったが、卒業式のために体育館を空けてくれたのだと思う。どこからそういう話を聞いたのか、気配で感づいたのか、なんとも言えない状況に担任一同泣いた。地震直後には涙なんて出ないけれど、堰を切ったように・・という表現はこういうものかと思えた。

 

 そんなドラマはたくさんある。本にするものでもテレビに映すものでもなく多くの人の心に焼きついている。