ある学校の話①

 個人的な話になってしまうが忘れられない学校がある。どこの学校でも生活指導はあるものだがそこはスケールが違っていた。住宅造成地に置いてあった車が燃えた🔥 車専用道路にかかった橋の上からタイヤが落ちてきた🛞 トイレのゴミ箱からボヤが出た・・ ある階全ての和式トイレに金魚が泳いでいた🐡 その度に職員全員でどうしたものかと考えた。ああでもない、こうでもない。

 もし学校のマッチで火がついたのならえらいことだ。理科の実験で使うマッチを1人1本にして必ず数を確認しよう!トイレのゴミ箱は撤去しよう!!大の大人が集まって、小さな作戦しか思いつかなかったけれど皆目的は一緒。一体感があった。

 

 「どうしてこの学校にはトイレにゴミ箱がないのですか?」「それはね・・・」4月に着任した仲間に、ずっと同じことを説明していたように思う。いつしか私たちは原点に戻って、子どもたちにも学校の約束を「全員集まって」聞かせましょう、と生活指導集会を始めた。視覚的に訴えるために6年生に出演してもらってビデオを作成し上映した。廊下の歩き方、職員室への入り方、挨拶の仕方、教えたいことはたくさんあるが1回の集会で3つ以内に指導事項を抑え、回数を積み重ねた。体育館への入り方も並び方も揃え直した。体育館シューズの置き方も「左側」と決めた。会の進行を画用紙に書いて大きく表示し、終わったら剥がしていった。

 

 今ならスクリーンに映せば住む話かもしれない。そんな努力を繰り返すうちに子どもたちは変わっていった。いや、変わったのはまず先生たちだったのだ。それでも大きな生活指導事案は結構起こった。6年生を担任した時は、何度か指導のために日を跨いだ。その時刻にならないと保護者が揃わなかったからだ。保護者も夜の仕事が終わってすぐに駆けつけてくれたのだから仕方がない。みんなを返したあとしばし無言で時を過ごした。

 

 今もその時の学年を組んだ同僚を戦友と言っている。特別な存在だ。しかしUD(ユニバーサル教育)とか合理的配慮という言葉が広がる以前に私たちは同じことをやっていた。あの大空小学校より前にみんなで取り組んでいた。それは決して行政や管理職の主導ではなく、困ったことを目の前にして協働して知恵を出し合った結果生まれた取り組みだった。その取り組みを研究として積み重ね、発表をしているうちにあるテレビの放送局から取材の申し込みがあった。校長先生は乗り気だったが、話し合ってやめましょうということにした。落ち着いたとはいえ、まだまだ本物ではないという認識だ。

 

 それでも忘れられないのは、戦友が○○委員会を指導した年だ。中庭に小さな池があり、そこをビオトープにしようと計画を立てた。正直、高学年の強者が集まっていた。ところが戦友の献身的な指導が次々と繰り出され、彼らは毎日休み時間に池をのぞき、草をむしり、生き物を観察した。夏が終わった頃プールに水草や背の高い植物を植えて、メダカを放ちトンボを呼びこんだ。戦友に言われて、だまされたと思って低学年を連れてプールを覗くとなんと水が美しく澄んでいて群れをなしてメダカが泳いでいた。メダカの学校である。子どもたちと一緒に感激した。自然低学年の子どもたちは手紙を書いた。「ありがとう」

 

 戦友は、委員会の子どもたちの問いに丁寧に答えてやっていた。どうしてあんなに気をつけて世話をしているのに食用蛙が発生してしまうのか?・・それはね。本当?子どもたちは確かめる。○○川の生態系を壊すと言われたブラックバスを食べてみたいと言われれば、専門家を連れてきて実現させた。「うまい」

今なら無理だろう。

 その年の卒業式、戦友は一人一人に将来の夢を語らせた。百数十人を全員で、に反対の声もあったが強行した。委員会の「元」強者たちが口々に委員会の思い出を胸を張って語った姿は心に刻まれた。なんの変哲もないその池は、完全に子どもたちの自治による運営となりその年は全国のビオトープ審査会で銀賞、次の年には金賞を取った!あたりまえである。夢を育み人を育てた素晴らしいビオトープなのだから。

 

 長くなってしまった。人はこうして育っていく。トイレに金魚が泳ぐ学校から全国ビオトープ金賞の学校になった。