忘れられない人

 目標の20記事に到達した。書くことは結構あるものだ。

 区切りの記事は今の自分に影響を与えてくれた人のことを書こうと決めた。

 

阪急少年音楽隊の鈴木竹男隊長である。

 

 日本のマーチ王、阪急百貨店吹奏楽団指揮者、wikで引くとたくさん出てくる。

 お亡くなりになって20年近く経つのが信じられないけれど、今になってYou Tubeで素晴らしい演奏とともに映像の中の先生にお会いできる。

 初めてお出会いしたのは高校生の時になる。もちろん一方通行だ。「あれが阪急の鈴木先生か・・・」遠くから憧れて見ていたに過ぎない。

 

 前に行進曲ネタで1つ記事を書いた。「元気を出したい時は聴いてみよう」と。その行進曲が、私と先生を結びつけてくれたのかもしれない。

 高校で吹奏楽をやっていた私たちには指導者がいなかったので、自分たちで練習して自分たちで演奏して活動していた。昔はそういうバンドは多かったと思う。

 「自分たちで」というのは、言葉として格好はいいが、楽器というものは我流で始めてしまうと、つい悪い吹きぐせがついてしまい直りにくい。やはり構え方から姿勢だとか、口の形、吹奏楽であれば息の入れかた、呼吸の仕方、喉の開き方など初歩段階で学ばなければならないことは山ほどある。

 負けたくないからがんばったが、顧問の先生が指揮指導をされている学校はやはり羨ましかった。

 

 幸運にも、大学で比較的規模の大きな吹奏楽団を続けることができ、先輩の引き合わせでこの運命の人に出会う。本物の鈴木竹男先生である。うまく話すことはできなかったが、その後なぜかよくお声をかけてくださるようになった。ちょうどユニバーシアード神戸大会が開催されることが決まっていて関西の大学連盟が入場行進を担当する年だった。

 

 「大人物」という言葉はこの人のためにある言葉かと思う。私たちのような、孫に近い年齢の

学生をとてもかわいがり、ひとつひとつ悩みを聴いてくださった。就職してからも私はよく先生に手紙を書いた。返事が来ないことはなかった。超お忙しい身であるにも関わらず、である。あの青い万年筆でしたためられた角ばった字が目に焼きついている。

 

 後年奥様にお聞きすると、朝は早くに出かけられ帰りは深夜。食事もそこそこに、すぐその日届いた手紙に目を通し返事を書いておられたとのこと。本当に頭が下がる。

 

 「人を大切にする」というのはそういう姿勢をいうのだろう。先生をお慕いするのは1人ではない。一学生より地位のある方は多勢いらっしゃっただろう。それを分け隔てなく接してくださっていることは、手紙からはもちろん普段の言動からも窺えた。利害なくコネクションを築く、というかそうなると人の方から先生という大樹に集まってくるようだった。高名な作曲家の先生方が阪急に演奏してもらいたいと作品を寄せるのも理解ができた。

 

 指導されていた阪急少年音楽隊も阪急百貨店も厳しいトレーニングで鍛えられたチームである。

演奏会に行くと、もちろんどの曲も上手い!力強い!!しかし、先生が登場するとひときわ引き締まった音を奏でる。ふくよかな音色になる。その音がCDやDVD、You Tubeで流れる名演奏である。活きたリズムというか、特に行進曲の躍動感やワルツの絶妙な「ため」は同じ曲を聴いてもやはり違う。

 長年の指揮者・演奏者のパートナーシップは

こんなにも優れた演奏を創り出せるものかと思う。私たちはその大きな背中を見て育った。

 

 そんな先生に仲人までしていただいた。

 

 子どもたちには車に乗るたびに、少しずつ先生の演奏を聴かせた。

今でも元気を出したい時に聴いている。

 

 吹奏楽で名を馳せた先生だがよく知られているように、もともと中学校の社会科の先生である。

その後金賞常連校になる中学校の基礎を作り、ご自分は招かれて阪急百貨店の社員養成機関阪急商業学園に入られた。マーチングも音楽も作曲も独学ということだ。常々自分もR,シュトラウスのように音楽で人を楽しませ、幸せにできる人になりたいとおっしゃっていた。

 

 名演は多くの人の心に残る。未だに私も元気をいただいている。