教える とは 身につくこと

 教わる、とは身につくことだ。一度しっかり身についたことは離れることはない。ちょうど日本の学校も2学期が終わった頃。通知表を見て2学期と、そして1年間を振り返っていることだろう。「〇〇をがんばった」「△△ができるようになった」・・子どもたちの自覚もあるし、先生の見立ても、親としての感じ方もそれぞれにあるだろう。そこにはズレもあって、互いに違和感を覚えることも少なくない。アセスメントは人それぞれ違っていて当たり前だけど、文書として届ける場合は学校としての見立てを揃えなければならない。担任がかわって見立てが変わったり、新しい担任にピタッとはまって、親としては急激に能力が伸びたと感じたり、不幸にもその逆だったり・・。好ましいことではないが、先生のお人柄まで揃えることは至難なので、感じたことは遠慮なく学校に伝えた方が良い。そこから学べる学校はきっと良くなる。

 

 前に書いた娘の音楽の先生のように、大人になった今でも鍛えていただいた能力や物事に向かう姿勢がその時に培われたものだと親として感じることがある。感謝しかない。まさに「教わる」は「身につく」ことだ。逆を言えば、身についていないことは教わったことにならない。その教育の場面には若干の?いや、かなりの厳しさがある。その子の見立てがしっかりしているから、子どもが届く限界の課題を与えることができるのだ。教える側のエネルギーと教わる側の懐の広さ、激しくぶつかるほどに「身につく」気がする。

 

 私が最近出会った素晴らしい先生で、とてもお若い先生がいる。礼儀正しく、単にご本人が礼儀正しいだけではなく、担任している子どもたちが全て同じように礼儀正しくなるのである。しかも厳しさも感じる。口に出して教えているわけではなく、子どもたちの方から進んで大好きな先生の姿を真似ているようである。何かの面談の時に尋ねてみた。「先生がそんなに礼儀正しいのは、中高時代の部活でも厳しかったのですか?それともご両親が厳しかったですか?」と答えは即刻「両親が厳しかったです。」

 

 負けた!?と思った。正直初めて。自分の子育てには自信があったけれど、唯一「足りなかった」と感じることがあったのが「厳しさ」だったからだ。ちょうど折しもそれを実感させる出来事も重なったので余計に強く感じたのかもしれない。

 

 過度な厳しさは子どもを萎縮させる。特に厳しい(怖い)父親の息子は萎縮するケースが多い。母親の厳しさは子どもにとってまた次元が違うものだ。うまく育てられたと思う。その先生直接よりも、子どもたち(2年生だった)の姿から感じたから本物だ。途中から病気で、保健室によくお世話になったそのうちの1人が「お世話になってありがとうございました。」と我々にあいさつをした時には本当にびっくりした。言い聞かせて出る言葉ではない。この子はこれからもずっとそんなあたたかい言葉を返せる人になるだろう。

 

 教える 身につく は難しいが、そんな姿を見せてくれた若い先生がいた。