個別指導塾

 入試のシーズンだ。少子化といっても人気の大学に向かう競争率は激しい。自分はもちろん、子どもたちの入試も終わりこの季節の精神のシビアさを忘れつつあるが、どうか蓄えた力を十分発揮できるようにがんばってほしい。そのためには本番だけではなく、ここまでの体調管理や食事のお世話など家族の協力も欠かせなかったはずだ。ひと段落ついて感謝の気持ちが確認できれば入試は成功だ。

 

 近年「個別指導」を謳い文句にする塾が増えた。教材は自社開発のものもあるしAI搭載のICT教材を利用している塾もある。保護者としては使用教材の研究もしておかなくてはならないので大変だ。こういう教材はすべてを事前に体験できるわけでもないし、人によって使い勝手の相性は違う。公立学校にも導入されているので、その機能には驚かされる。任せるべきはAIに任せられたら、先生は徹底的に個と向き合える時間ができるわけだ。ここまで詳細にデータが出るならば通知表は不要かもしれない。

 

 受験生活を乗り越えた経験者として言えば、例えば大学入試が人生のゴールではない。私はそういう勘違いをしていた古い世代の代表者だ。大学で何を学ぶのか。4年後あるいは6年後でていく社会でどういうことを成し得たいか、社会に貢献するか。もっと子どもたちと議論すればよかった。子どもたちが下宿したり、サークル活動に夢中だったり、我々は我々で大切な仕事が回ってくる年代になったりで、なかなかその時間が取れなかったことをすごく後悔している。

 

 GAFAMに代表される大大企業の活躍の陰で、Web3への扉を開くような優良な企業がスタートアップしている。良い高校、良い大学、良い企業の概念がもう通用しない。予想しにくい社会を語ることは、今の教師の仕事で最も難しい業務の1つだ。私たちの地域でも少子化のため学校再編が進んでいる。やり始めるとけんけんがくがくで何年かかるやら・・という状況だ。今や個別指導塾の全盛。ということは小規模校の時代なのだ。もしかして行政は時代に逆行しているのかもしれない。

趣味の話

 車に乗るのが好きだ。ぼうっと走っているとアイデアが湧く。気持ちが散漫になるわけではなく運転に集中するからだろう。書いていてもアイデアがまとまることに気づくことがあって、集中できる時間を持つのは大切だ。

 

 社会人になって2年目に好きな車が登場して1年間お金を貯めて買った。節約倹約の下宿生活だったけれど喜びは大きかった。今何代目のマイカーになるか数えていないけれど、独りの時はクーペファミリーができたらミニバン、そして流行りのSUVと車種はかなり乗った。

 

 急なドイツ赴任で1年半くらいしか乗らなかったけれどミニバンは広くて豊かになった気がしたし、思えばSUVの走りだった車は雪深い街で活躍した。これだけ車種があって、しかも1つ1つに名前がついている国は他にないだろう。それは同じモーター王国ドイツに行ってよくわかった。メルセデスメルセデスBMWBMW。あとは番号での識別だ。メーカーの数は多くはないけれど、1つの車種に多くの仕様があった。パワーウインドウが全席だけのモデルがあって面白かった。実際そのグレードにお世話になったが、リミッターもなく200km/hを体験できた。

 

 そろそろ今乗っている車も分不相応に思えてきたので、妻のものと併せて同時に1台にしようかと迷っている。しかし高い❗️💰  これではたとえ公務員共働きでもおいそれと買えない。若者の車離れというけれど当然だ。もう少し安くできないか。もしくは新社会人補助金とか? 以前同じ職場でキャンピングカーを買うのが夢だと日頃語っていた若手が、いよいよ「買います」と宣言してどう見てもファミリーカー軽自動車に乗ってきた。あれこれ仲間に言われていたけれど値段を聞くと自分が初めて買った普通乗用車と同じくらいだった。「もうちょっと攻めたら?」という言葉は引っ込めた。夢と共に車も大きくなるように頑張ってほしい。

 

 そう言っているうちにあるディーラーから声がかかり電動車を見に行った。興味はあったが、同じく車好きの息子から「EVは決して100%エコではない」とさんざ諭されていたのでサイズ感だけ確かめようと思っていた。ところが実車はあったものの受注停止だという。HPを確かめるとどうやらそれらしい一文が確かにある。確認せずに行ったのもよくないが、もっと大きな声で「今は買えません」と言ってほしい。そういう不誠実な態度は好きではない。世界情勢や半導体事情で納期が約束できないメーカー事情もよくわかる。「また受注が再開されたら・・」と辞去したがもう買わないだろう。

 

 スマホもpcも一般的ではなかった時代。(Web0?)車に乗って自由に行きたいところに行くというのは夢であった。車に夢を見出せれば人はまた戻ってくるに違いない。

また辞めた?

 スタッフが1人また辞めた。理由は知らない。それにしても多い。恥ずかしながらここは学校だが、辞めるのは決まってスタッフだ。一応相談役とも名乗っているので声をかける、もしくは声をかければよかったのかもしれないが辛抱が足りない❗️ 前向き退職と思っておこう。

 

 ここは異国 そう割り切っている。海外生活を経験した人は慣れっこだろう。こんなに約束をきちんと守る国はない。トップの考え方が外国そのものであらゆることがトップダウンだ。え?と思う仕事を仰せつかることもあるが、その後でAmazon cardをくれたりと、ちゃめっ気もある。公立の学校ではお礼をいうのが精一杯で、まさかそれは禁じ手である😊羨ましい。

 

 自分自身は様々な地域で勤めて、地域独特のやり方に戸惑ったり異を唱えたりした。しかしそのうちに身に付けたのが柔軟性だったり鈍感力だ。そういうと服従体験ばかりだったかというとそうでもない。思うようになったことの方が多い。極意がある。負けると見せて実は勝つ。騙すのではない。

 

 やはり日本人はやわらかく対応することが強みにもなると思う。根回しが必要だったり、想定問答を考えたり、事前準備も必要だ。

 

 でもこの学校はストレートにものが言える。英語だからなのかもしれない。自分のような人間には合っていると思う。では、もしかして日本の学校に復帰する時には十分気をつけねば・・・

意識を変える!?

 この難しい仕事に挑戦しなくてはならない。子どもを教育するのは「育てる」ことで、まだ身についていない知識や考え方を教えるので重い仕事には違いないがやりがいも可能性も大きい。しかし大人のそれはそうもいかない。固定観念を崩したり、その上に新しい価値を築くことは困難だ。

 

 昨今の不登校の状況や教育の現状を目を背けずに注視すれば、これまでと同じ方法で対処しても限界があるのがわかる。改善できるならとっくに効果も現れているはず。何かしら新しい方法を試みるのは当然だ。

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 あるメタバースのプラットフォームでOfficeを見せていただいた。というより入れていただいた。もうびっくりでワクワクする。こういう現実離れした世界観を味わうと学校にいかない子も興味を持ってくれるのではないか、誘い出せるのではないか、と思う。教室を再現するのはどこかノスタルジーでそれが順当と思い込んでいた自分に気づかされる。

 

 運用する前に果たしてこの世界が受け入れてもらえるか?子どもより大人の頭の硬さをどうほぐすか考え込んでしまう。心の可動域を増やす、広げる。同じように考えてくれる人はいるはずだ。そう考えよう。

 

 もちろんクオリティを担保するにはお金もかかる。それはスタートアップ企業への投資だ。昨日出会った会社さんも◯◯◯大学の学内企業。日本の頭脳もすばらしい。これを育てることが日本を救うことにきっとつながる。

Web3

 これからWeb3と言われる世界に入っていく。いや、きっともう入っている。人間のものの考え方は緩やかに変容していくので「いつの間にか」という感覚にはなるだろうけれど、メタバースをかじっているといやがおうでもWeb3やDaoといったワードが入ってくる。これから校長先生と呼ばれる人たちや、自治体の偉い人にこういう説明をしていかなければならないが骨が折れそうだ。

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 しかしどの言葉も勉強しがいがあり面白い。この「面白い」という感覚を持ち続けられる限り、自分は学んでいけると思っている。この歳にしてまだ伸び代がある。人間は生涯学び続けるものだ。ガラケーがいつの間にかスマホに置き換わったように、株式会社もDaoに変わってくのだろう。できればDaoをやってみたいと思うけれど、これはいまだに概念があやふやだ。そこから、長らく放っておいた暗号通貨の残高を調べてみると、思いがけないコインが高騰していたりした。わからないものだ。自分はここまでで、実際に送金したり換金したことはまだない。

 

 Web2で発展した組織が、音を立ててきしみ始めたことでWeb3が考案され実現しているのだろう。大きなところでは、某メガ銀行のシステムが長く復旧せず多くの人がお困りだったし、身近なところでは忠実に「組織」を固めてきた学校や自治体が軋みの音を立てている。プロジェクトリーダー、あるいは個人がどんどん自分の強みを活かしてある目標を達成するために動く。夢のある話だ。シビアに言えば「夢のために生きていける人」の世界だ。

 

 一般庶民はまだまだ稼ぎたい、生活の糧を得たい。Web2であってもまだできることはたくさんありそうだ。しかし、Web3を目指してがんばりたい。教育系でDaoを始めるプロジェクトがあればぜひ参加したい。(情報を待っています。)目の前の子どもたちは確実にWeb3に生きることになるからだ。

阪神・淡路大震災②

 あまりに無防備だった、からこそかもしれないが、人が助け合う姿をたくさん見た。自分が子どもを抱えていたこともあって、私が勤務先に初めて出向けたのは2日後だった。しかし同僚がまず無事を喜んでくれたり、学校の片付けがほぼ終わっていたり、感謝しかなかった。対照的に?妻の学校では「今まで何をやっていたのだ」というお叱りの声もあったと聞いて憤然とした。さすがに学校は大変だったのだろうが、育休中に心配して出てきた教員にかける言葉ではない!と私の学校の校長が代わりに電話口で怒鳴ってくれた。(なるならそんな校長になりたいと思った。)

 

 子どもを預けてしまった強み?で、そこからは学校に寝泊まりした。余震のたびに避難者が増えひどい状態であった。そんな時、別な地域の教員仲間が差し入れを持ってきてくれたり、片付け作業を手伝ってくれたりと感謝の連続だった。そういう中颯爽と現れたのは、当時勤めていた学校の地域の選挙区から衆議院議員をされていた小池百合子東京都知事だ。「一番お困りなことは何ですか?」と聞かれて「トイレです」と答えたら、次の日には仮設トイレがたくさん届きその行動力に「すごい」と思った。でも当時の仲間は一様に言う。「あれは忘れられない。」本当に困っている時の支援は心に刺さるものだ。

 

 自宅被害の方が酷かったがなんとか学校再開となり、初めは全国各地に避難していた子どもたちも少しずつ戻ってきた。卒業式までに全員が揃うか??際どいところだが準備は進めた。卒業文集。我々は話し合って地震のことをあえて書かないことにした。たぶん今書けばそればかりになる。確かに記録にはなるかもしれないが、卒業文集という6年間の思い出をまとめる場とは別な形で残せれば、という思いだった。この時の手記とか記録とか、クラスメイトが怪我をしたり家族が亡くなったりしたストーリーを本にしたりマスコミが取り上げたりしていたが、ちょっと苦々しく見ていた。無事を確認し、またみんなに会えて嬉しいけれどそうでない人や家族もたくさんいる。学校に泊まったことで家を失った人たちとゆっくり話ができたことや、子どもたちが書いた文集の原稿を1枚1枚これまで以上に添削できたのは震災以降の夜のおかげだ。この時間をくれたのは、自分の子どもと預かってくれた両親そして妻だと感謝している。

 

 震災2ヶ月と少しで卒業式。避難者が残っている体育館での卒業式提案に同僚から異論も出たが、とりあえず体育館実施を前提に準備を進めた。2週間前をリミットに近くの公民館で分割開催する案を副案として持ってはいた。震災本当に恐ろしいのは時間が経つほどに人が去り、最後どこにも行き場のない方々が残されることだ。3月上旬、体育館に残っていたのは4名の高齢男女。広い体育館の真ん中に畳を敷いてこたつを囲んでいた。いつも食事を運ぶと「先生お世話になってすまんなあ」と声をかけてくれた。その最後の4名がある夜お汁粉をご馳走してくれた。「まあ食べてよ」「いただきます」他愛のない話をしたと思うが内容は記憶していない。次の日4名の姿はなかった。

 私は言葉に出さなかったが、卒業式のために体育館を空けてくれたのだと思う。どこからそういう話を聞いたのか、気配で感づいたのか、なんとも言えない状況に担任一同泣いた。地震直後には涙なんて出ないけれど、堰を切ったように・・という表現はこういうものかと思えた。

 

 そんなドラマはたくさんある。本にするものでもテレビに映すものでもなく多くの人の心に焼きついている。

阪神・淡路大震災①

 地震からもう28年。被災者としては忘れられない1.17である。子どもが生まれたばかりで小学校6年生の担任、ぐらいの状況で当時を想像していただき、今後の皆さんの防災の糧になれば・・

 

 人生はいくつもライフイベントが用意されていて、ちょうどこの頃は子どももできて「3月には6年生を卒業させて学校も異動期だなあ、さてどうしよう?」と思案していた。一応自分も長男で、実家から勤務できるように異動希望を出すべきか・・いやいやこのままこの地でやっていくべきか??あまり気が進まないままに異動のための試験を受けてから1週間。寒くて雪の多い冬だった。

 子どもが午前4時ごろ目を覚まし、寝付けないままぼうっとしていたら突然青白い光が窓の外を走った。一瞬雷かと思ったが色がおかしい。音もしない。?と思っていたら地面を劈く揺れがきた。慌てて子どもに布団を被せて妻とその上を覆い「揺り返しがくる!」と言ったのまで覚えている。凄まじい横揺れがきた。コップの中に入れて巨人に揺さぶられている感覚でそばにいるはずの妻の顔もはっきり見えない程だった。

 

 やがて揺れがおさまり、家族の無事を確認してホッとしたのも束の間。(たぶん)外から人の声とガス臭い匂いが立ち込めた。これは外に逃げないとやばい、と隣のリビングに出ようとして、薄明かりの中でただならぬ気配があることに気づく。一面に割れたガラスの破片があった。ちょうど寝ていた和室前にスリッパを脱いでいたのと何かの薄明かりでぼんやり部屋が見えたのが救いだった。

 

 さて、逃げようとしてなんとか道を作ったが「寒い!」 服を取ろうとタンスのある部屋を開けようとしたら、なんとドアが開かない。隙間から見ると重い和ダンスが倒れていて塞いでいる。万事休すと諦めかけたら、ベランダに洗濯物が!! 取り入れ忘れていた妻に感謝! なんとか乾いていた服を着込んで駐車場にあった車に子どもと妻を避難させた。逃げる途中、崩れたマンションの壁や隣にあったはずの家の屋根だけが見えた。

 

 明るくなってきて隣人の救出作業が始まった。ご近所総動員でご高齢の夫婦を崩れた家から助け出せたのはもう昼前。救急車や消防車はとても来ないだろうなと思える状況だった。とにかく我が家も子ども最優先で脱出することにした。公衆電話の長い列、10円玉リレーや公園・運動場の炊き出しはすべて真実だ。今考えてもあまりに我々は無防備だった。

 

 すでに車の列は国道を塞いでいたが、地震発生の前に炊けていたご飯をすべて握り飯にして車に乗り込み実家を目指した。ひと山越えるのに半日はかかったが、市境を越えて別の市に入ると車を洗っている人がいた。え??この地震は?私たちが住んでいた所だけで起こったの???不思議な光景だった。すでに陽が沈みかけていたがなんとか安全圏に来たようだ。興奮はなかなか治らなかったので後になって振り返ると①ガソリンを入れていてよかった。②スリッパを身近に置いていてよかった。❶次の日の着替えは枕元に置こう!❷懐中電灯も用意しておこう!!たくさんの反省が湧いてきた。  to be continued